【縁あって家族】鈴木和子・上冨士川分教会長夫人 里親は親神様への恩返し
決して喜び勇んで受けた里親ではなかったが、自分が親神様からいただいたご守護を思い、ご恩返しに受けさせていただくという心を定めた。 我が家にやってくる里子たちとの、親神様が結んでくださった不思議なご縁を語る。
決して喜び勇んで受けた里親ではなかったが、自分が親神様からいただいたご守護を思い、ご恩返しに受けさせていただくという心を定めた。 我が家にやってくる里子たちとの、親神様が結んでくださった不思議なご縁を語る。
教祖の絵本を描く御用をいただいた講師。 しかし締め切りが間近に迫る中、 突然の発熱に襲われる。絶体絶命のピンチから立ち直る奇跡の回復のご守護と、その後、なおも続く信じられない奇跡の数々を赤裸々に語る。
どうしてもおさづけが取り次げない意気地のない自分。 「そうだ。教祖にお出ましいただこう」雨の中、おたすけ先の病院へ、見えない教祖のお供をして向かう講師。教祖を慕う一途な信念が呼び起こす奇跡と感動の体験談を語る
教祖にお逢いしたと感じた二つの貴重な体験。 たいへんなふしをいただいても、ご存命の教祖のお働きはおたすけの中に起こってくる、と豊富な体験をもとに信念を持って語りかける。
ひながたをたどるとはどういうことか。それは親の思いがわかり、それを我が心として通るように成人することである。そしてそのたどり方は、ちゃんと坐りづとめの地歌に書き残して下されている。 そう説き明かす講師が、みかぐらうたの第一節~第三節を手がかりに、ひながたをたどる意味について詳しく述べる
里親となり里子を委託されて気づく大切なこと。家族とは何か?自分のいんねんとは何か?子育てとはどうすれば良いのか?その学びが陽気ぐらしへとつながる道である、と講師は説く。
今から10年前に、14日間かけて野宿を繰り返しながら大分県中津市から天理まで歩いた経験。 いろんな体験から気づく守られている日常のありがたさ。仕合わせとは出来事との巡り合わせであり、喜びの元である、と説く。
逸話篇70「麦かち」から読み解く教祖の日常。ひながたをたどるコツが、その何気ない日常の描写に描かれている。自身の体験も踏まえながら、おやさまのひながたを模範に歩む心を説き明かす。
120年祭、130年祭と心に湧いた勇み心のままに心を定め、つとめてきた布教の日々。事情も起こればご守護も見せていただいた。今日までの結実を胸に、新たな年祭活動へと前進することを誓う。
初めて里子として預かった子ども、洋人。そのつらく悲しい生い立ちとはうらはらに、まったく手のかからない子どもだった。諦めることを早くから覚えているようで、それがある意味不憫だった。肉親より強い絆で結ばれるのが里親と信念を説く。
いろんなことが起こってくるのが人生。しかし、そのすべての答えは自分の心の中にある。起こってくることの意味を考え、その中にこもる親心を感じるとき、今を活きる喜びが湧いてくる、と説く。
周りに起こるいろいろな問題。その解決として、まずは自分の心を振り返る、ということを教えてくださったのが教祖。いろいろな体験の中から、そういう心を育てる方法を、分かりやすく説く。